国民のための環境学: 環境理念

様々な環境に関する理念、考え方

2002-4

国民のための環境学
ー「成すべきこと」は分かっている
石井吉徳
東京大学名誉教授、元国立環境研究所 第9代所長

「有限の地球」で人間だけが、無限に成長は出来ない。この単純な真理に人々は漸く気づ き始めたようです。しかし、今日も大量の資源、エネルギーを使い「大量生産、大量消費、大量廃棄」を続けています。これが現実の姿、現代工業化社会の実態なのでしょう。

日本は不況、膨大な借金しての消費拡大が叫ばれます。現代工業化社会は際限のない需要の拡大を求め、成長は正義のようです。いまでは政治家、評論家、エコノミストなど日本の指導層は、まるで「国民が浪費をしないのが悪い」と言わんばかりです。この国を上げての大合唱には、アメリカすら加担しています。ところがもう国民はこの笛に踊らない、そして思ったほど消費も伸びないようです。「工夫のない大量生産型商品」には国民は見向きもしないようです。もう物が溢れているからです。だが「心が満たされない」。充足感がないのです。何かが欠けている、安心出来ない、いつも追い立てられるようで不安です。焦燥感があるのです。それというのも、いま不足しているものは「物ではなく心の豊かさ」、未来への確かな見通し、つまり「理念」だからでしょう。

昔から、要らないものを買うことを「無駄遣い」と言います。「浪費」とも言います。そして「節約は美徳」であったのです。だが、今はその逆のようです。国は「浪費」の音頭すらとってます。そして経済の発展、成長と共に自然は失われ、心は貧しくなりました。我々の周りは「鉄とコンクリート」で囲まれ、都会も地方も特徴のない無味乾燥なところと化したようです。いまの日本、何処に行っても同じで、個性も独創性も殆ど感じられません。

20世紀、自然環境は悪化しました。特に後半は気候温暖化、オゾン層破壊などで地球が危ないと言われます。ダイオキシン、環境ホルモンなどは孫子まで影響すると不安は増幅されます。「大丈夫、安心」という話は殆ど聞かれなくなりました。冷静で科学的な話は聞けず、科学者も「分かっていること、分かっていないこと」を客観的に国民に伝えようとしません。そして日本人の「物の見方」は、情報化と共にかえって画一的となったようです。日本人が個性的であったのは、江戸時代までのことなのかも知れません、

環境問題の概念すら殆ど輸入している、からでしょうか部分しか目に入らず、環境問題で最も大事な「総合的な視点」を欠くようです。「部分学があっても全体学がない」のです。例えば地球温暖化でも、二酸化炭素の排出権取引などのような技術論が、あたかも本質的な解決策のように論じられます。しかし、原理的には「地球温暖化はエネルギー問題そのもの」であり、その解決には現代の「浪費型社会を見直す」しかない筈ですが、政官学の指導的な立場の人々はそう言いません。むしろ今は不況、消費拡大は当然と言うようです。そして、際限なくエネルギー消費は増えます。当然二酸化炭素の排出は減るどころか、依然増え続けます。

「問題の本質」に国民の方は気付き始めたようです。消費拡大の大合唱に踊ろうとしないのは、そのような「直感的な思い」によるのかも知れません。今学ぶべきは一般国民ではなく、旗を振る「依然欧米追従型の指導層」なのかも知れません。明治以来の姿勢が一向に改まりません、困ったことです。

日本が作る物流スケールは年間57億トンと巨大です。これには国内、国外の「見えない物流」も含みますが、この「物流を全て循環」するのでなければ、本当に「ゼロエミッション社会」を達成したことないはならない筈です。多くの場合、全体でなく部分だけの話で、特にエネルギーについての配慮を欠くようです。毎日メディアで報道されるリサイクル運動についても矛盾は多いようで、「ゴミは資源」といういわゆる「正義」もよく考える必要がありそうです。

「ゴミ」を「資源論」から考えますと、「ゴミ」とは拡散された物質の状態であり、これは非秩序のことでもあります。物理的には「エントロピーが増大する」プロセスなのです。それを「再び集め濃縮する」、いわゆる「ゴミを資源化」するには必ず相当な有効エネルギーが必要なのです。「エネルギーの投入無しに、エントロピーは下げられない」からです。

ゴミを集めるのに市民の労力が投入され、ゴミ収集車が走り回ります。つまりエネルギーが要ります。ゴミの焼却にかかる地方自治体のコストの1トン約3〜4万円の60%以上は、ゴミ収集費なのです。これも税で払われますから、ゴミの元を作るメーカーは困りません。そして、次々と目先のみ変えた「新商品」を物流パイプに押し込みます。

際限なく「物を飲み込む大量物流社会」を改革しないで、完全リサイクルを目指せば、更に資源・エネルギーを浪費する「大量循環型社会」を目指すことになります。環境負荷を本当に下げるには「物流パイプの元栓」を締め、「無駄と浪費」を本気で減らすしかないのです。もし、これが本格的に行われれば地球温暖化を含め、多くの環境問題が確実に解決に向うでしょう。当然捨てられるゴミの量も大幅に軽減される筈です。

原理原則的には「成すべきこと」は分かっているのです。「膨張で象徴される20世紀」の逆を行けば良いのです。「欲張らない」、「物より価値」を重視する「無駄ゼロ社会」を目指すのです。ですが「目標は高く、実行は足下から現実的に」をモットーとしたいものです。例えば昔ながらの[もったいない]を復権させ、「無駄な物は買わない」ことなどは明日からでも出来ることです。

21世紀は「物から価値へ」、「物が提供するする価値を目的とする社会」を構築するのです。そして「地球は有限、知は無限」と考える、分かりやすい「国民のための環境学」を育てたいものです。(2001-4)

2002年度の内閣府「国民生活に関する世論調査」で、「物の豊かさ」よりも「心の豊かさ」を重視する人が60.7%いることが分かった。これは前回調査よりも4%の増加で過去最高という。これに対して「物の豊かさ」は27.4%、2%減で過去最低となった。日本国民の意識が変わりつつある。(2002-9)


2000-5

21世紀の『実行可能な』環境倫理
食事を残さない
大井 玄
国立環境研究所 第10代所長
(国家機関として最後)


1.
経済のグローバル化と所得格差の拡大
 1年を通じて異常に暖かい年が続くようになった。国連環境計画(UNEP)が昨秋出した報告書『地球環境展望2000(GEO2000)』によれば、人間活動に起因する地球温暖化はもはや食い止める時期を逸したかもしれないという。GEO2000を読んで印象に残るのは、人口、エネルギー消費といった要因についての分析もさることながら、環境劣化をおこす人間活動の様態あるいは趨勢に強い危機感をにじませていることである。例えば、現在もっとも顕著でかつ憂慮すべき趨勢として挙げているのは次の二つである。@生産性と物資やサービスの配分に著しい不均衡があり、それにより地球生態系が脅かされていること。A社会・経済発展に比べ環境対策が追いつかないまま、世界は加速度のついた変化を遂げていること。この状況下、技術発達や環境政策がもたらす環境上の利得は、人口増や経済発展に伴う負の影響によって相殺されてしまっているという。昨年末シアトルで開催された世界貿易機関(WTO)の閣僚会議は途上国の反対などにより決裂したが、経済のグローバル化に反対する『環境派』のスローガンと通底する認識が同報告にも見られる。『経済のグローバル化の過程は極めて強い影響を社会発展に及ぼしている。その過程は、今日世界を分断している深刻な不均衡を更に悪化させずに、むしろ解消する方向へと向ける必要がある。けだしこの不均衡の解消こそが、地球と社会の将来を持続させ得る唯一の道である。』まどろこしい言いまわしだが、同報告の世界経済についての分析では、「経済のグローバル化は、1950年以来世界経済の規模を4倍以上に成長させ、一人当たりの平均年収を2.6倍に増やしたものの、地球的には地域対地域、国対国、国内的には社会階級間の所得格差を増大させ、しかもその拡大しつつある格差はよく見えない。だがこの方向へ進むことは地球にとって持続可能な道ではない」というものである。

 今年になって、米国労働総同盟産業別組合会議(AFL-CIO)の国際部会委員長であるJ.マズ−ルは経済のグローバル化が国際的、国内的所得格差を『劇的に』増大させていると論じている〔Foreign Affairs: Jan. Feb.,2000〕。彼によれば、経済のグローバル化に伴う貿易量増大は、むしろ所得の不均等をもたらすものである。即ち1980年から1996年の間、一人当たりGDPで3%以上の増加があったのは33カ国であったのに対し、その倍に近い59カ国では逆に減少している。10年前あるいはそれ以前と比べ、80カ国で現在の一人当たり年収は低下している。しかも世に言われていることと反対に、一番割りを食っている国こそがもっともグローバル経済に組み込まれているという。例えば、サハラ砂漠以南のアフリカ諸国はラテンアメリカ諸国より高い「輸出/GDP比」を持つが、一人当たりのGDPの減少は著しい。これはその輸出品が一次産品であるため、市場変動に影響されやすいからである。

 また1994年の北アメリカ自由貿易協定(NAFTA)締結以来、メキシコの労働者の購買力は現在25%も低下している。同国の経済は1996年財政危機から回復したものの、多くの零細企業は破滅したままである。国際通貨基金(IMF)が国の通貨危機に対し処方する通貨切り下げ、緊縮財政、福祉縮少などは外国からの投資を誘致する策である。しかし、労働者、農民、国内の製造業者は自分たちが創ったのでもない経済危機のつけを払わされているという。

 所得格差は国内的にも増大している。アメリカは「世界経済で一人勝ちしている」と言われるように、経済のグローバル化の恩恵を最も受けているはずである。しかし所得格差は1890年代の「金ピカ時代」にしか見られないほどに不公平になっている。現在、企業の最高経営責任者(Chief Executive Officer)は、労働者の平均416倍稼いでいるという。実際、製造業労働者の時間当たり実質賃金は1979年には14ドルだったが1997年には12ドルに減っているし、富の93%は上位20%に集中するという信じがたい現象が生じている。
 「経済のグローバル化では、配分の不公平、労働条件の劣悪さや環境破壊など、市場が計算できない外部要因は配慮されない」、とマズールは指摘する。だからCO2排出抑制を義務づける法令は、『差別的』であるとされ、絶滅が懸念される生物種を保護する規則は『非関税障壁』であると宣言される。つまり経済のグローバル化は一方では世界経済を全体として増大させている。他方国連環境計画の指摘のように、それは地域、国、社会の各レベルで、配分の不均衡を著しく拡大している。


2. 配分不均衡の拡大と環境問題
 経済のグローバル化を提唱する理由の一つが、競争の原理に基いて消費者に良い品物を安く提供することだとすれば、極端な配分不均衡から生ずる事態はこの主張に矛盾する。全地球的に見て、比較的少数の高所得者はさらに物質的豊かさを享受し、多数の低所得者層はそれにあずかることがないからである。国際食糧農業機関(FAO)によれば、途上国を中心に、世界では8億もの人が飢餓、栄養失調に苦しんでいるという。更に世界銀行によれば、この低所得者層は増加しており、1987年に比べて、現在では一日1ドル以下で暮す最貧困層は2億人多くなったと報告されている。

 さて、配分不均衡の拡大が地球環境劣化をもたらす道筋は様々である。例えば上述のごとく、経済のグローバル化を急ぐあまり、環境保護政策を保護貿易的であると断罪したりする。その地域に伝えられてきた農耕様式が環境保全に重要な役割を果してきているにもかかわらず、その役割を無視するといった形もあろう。また、先進国ではその生活様式自体がエネルギーの過剰消費を招きやすい。化石燃料をふんだんに消費する結果、CO2排出などを通じて環境破壊的に働き得る。地球人口のうちの4%に過ぎないアメリカは、全世界のCO2排出量の約4分の1を排出し、一人当たり排出量では途上国の10倍から30倍、EUや日本に比べても2倍近い量を排出している。

 もちろん日本とても褒められる状態にはない。エネルギー消費という点では食糧の60%以上を海外からの輸入に依存しているのに、そのうちの3分の1は廃棄されているという。その一方、飽食による若年者の肥満、糖尿病が増加しつつある。

 ところで、環境破壊は低所得でしかも人口増加率の高い地域で最も顕著といえよう。1994年、50万〜100万人といわれる大殺戮が起ったルワンダの例は有名である。同国は1940年代はアフリカのスイスと呼ばれたほど緑豊かで風光明美な土地で、主産業は農牧であった。宗教的な理由などから、人口増加率が3%以上の年が続き、人口爆発が起る。1950年には200万だった人口は1994年には約4倍の800万に達したと伝えられ、これに伴い農地面積も急激に増加した。1970年に53万ヘクタールだったのが1990年には84万ヘクタールに達し、文字通り山の頂上まで耕された。当然森林面積は大幅に減少し、1965年には13,000平方キロメートルだったのが1993年には5,500平方キロメートルと、わずか30年足らずのうちに半分以下に激減してしまった。
 低所得の国々の環境劣化は、森林減少、牧草地の砂漠化など、土壌や水資源の悪化に現れている。言うまでもなくこれは人間の必死の生存努力、やむを得ないあがきの結果である。


3. 環境問題への対応
 一昨年、第一回国立環境研究所公開シンポジウムで述べたように、私は研究所に来てから多くの環境科学者に環境問題への対応方針を問うてきた。それは「環境問題は科学、技術の進歩、展開によって解決できるのか、それとも環境問題を生み出している人間の行動を変える必要があるのか」というものである。彼らの答えは例外なく人間行動を変える必要があるというものだった。

 さて、平成12年2月13日付の朝日新聞の論説は、『資源生産性を高める』ことにより持続可能な経済発展は可能だという趣旨のように解される。朝日の所論は、@地球環境への負荷を減らすには、人口を抑制するか、一人当たりのエネルギー消費量を減らす必要がある。A人口に関しては、女性の地位向上や子どもの教育などにより抑制努力がなされている。B一方、先進国の過剰消費問題はほとんど手つかずであり、これに取り組まなければならない。ここまでは私も同意するが、以下の所説には頭をかしげる:「…実際には先進国の人々に今の豊かな生活を犠牲にして、途上国の生活水準に落とせ、と迫るのは難かしい。豊かさを保ちつつ、それでいて地球環境に過大な負荷をかけない方策を探るしかない。」また一方でこうもいう。

 「途上国の経済発展は先進国と同じ道をたどっており、このままでは、人類は限りある資源を浪費してしまう……。かといって、後から追いかけてくる途上国に対し、先進国のような豊かさを求めるな、と言うのは身勝手極まりない。」つまり先進国の浪費行動を『途上国並みに』落とすことは難しいから、ジャボジャボ消費している行動を黙認する一方で、途上国の生活水準を上げようという欲求にも理解を示す。人間行動が変わらないのなら、資源の利用効率を上げる必要がある。それは省エネや省資源につながる技術革新、技術発展だということになる。だが私の知る限りでは、地球環境問題解決に至るほどの技術革新を保証する環境科学者はいない。しかし、環境対策の大方針として、恐らく大多数の環境研究者にとっては実現性が小さいと考えられる選択肢を示す朝日の論説を「全」否定するつもりはない。それは、誰の気持ちも傷つけず、誰にも苦痛を与えないように配慮するならば、当然帰着する結論だからであり、また技術革新努力も確かに必要だからである。


4. ささやかな倫理的提言
 さて、人間社会はその歴史的過程においてそれぞれの倫理(道徳)規範を形成してきた。これを今『倫理』と呼ぶならば、それはその社会の存続に関わる戦略的指針と解釈できよう。またその社会の構成要員である個人にとっては、自分の生存確率を最大ならしめる行動パターンであろう。とすれば、それが学習により内面化したものが倫理意識である。倫理や倫理意識はそれぞれの社会の歴史的過程により形成されるものであるから、その歴史的過程の違いにより異なる特色が生ずるのも当然といえよう。例えば、人間の技術が自然の資源を富に転換できるようになった歴史的時点で、人間活動の規模に比べてほとんど無限のスペース、無限の資源に恵まれ、しかも文化的背景が多様な人々が移民した新大陸では、その生存にもっとも適した倫理は自立自尊であった。個人は基本的にはバラバラであり、各人は自主的に思考し、判断し、意思決定を行い、行動する。他人や政府の干渉を極力排除し、各人が己の欲する処に従い、努力し、欲望を具現化していけば、総体としての社会の利益も最大になる。競争に破れれば新しいフロンティアに移る。このような希求、行動そしてそれを良しとする倫理意識の形成を可能ならしめたのは、『無限』のスペースと資源である。もし以上のような人間活動に比べ無限といってよいほどの豊かなスペースと資源の取り合せを『開放系』と名付けるならば、北米白人中流階級を特徴付けるのは開放系の倫理意識である。そして、新古典派経済理論において、経済主体である人間は開放系の倫理意識を持つと想定されている。またこれは経済のグローバル化において想定されている人間像でもある。

 一方、『閉鎖系』も存在するのであって、そこではスペースは狭く資源は乏しい。大規模の相互殺戮をせず平和に、最大規模の人口を養うにはそれに適した倫理、倫理意識がその歴史過程を通じて形成されてくる。人類史上閉鎖系で循環型社会をほぼ三百年間持続させ、かつ高度の文化を築いた例が日本に見られる。蛋白質構成要素としての窒素のリサイクルを農耕を通してほぼ完全に行った上で、日本列島で維持できる人口は約3000万人と推定されるから、日本はまさに人口扶養能力の限界まで人口を増やし、しかも美しい環境を保持してきたといえる。

 日本的倫理意識の特徴には、明治期におけるベルツなど多くの外来者が注目した、勤勉、正直、柔和、質素、節約などがある。またこれらは、いずれも狭いスペースと乏しい資源を意識することによってこそ学ぶことができた倫理意識であろう。

 第二次世界大戦に敗れ、高度経済成長期を経て物質的に豊かになり、閉鎖系の生存指針は『自由』の名の下に切り捨てられた。大量生産、大量消費と廃棄という『開放系』でのみ持続可能な生活様式が奨励、賞賛され、つましい生活様式は『うさぎ小屋』として冷笑されるようになった。しかしながら、地球全体が閉鎖系であることは言うまでもない。問題は人間の意識が、地球環境的現実に追いつかないことである。狭く、乏しく、汚染された閉鎖系で、欲望の飽くなき追求をも容認する開放系の生存戦略が、今後どのくらいの期間、地球環境の破滅的変動を起さずに通用するかは予測しがたい。古来閉鎖系社会における倫理が禁じた人間行動の一側面は、『貪欲である』ことであった。生存指針としての倫理にもとる人たちの行動を正すには、自らが生存適合性ある、つまり倫理的行動を採る必要があろう。それはたとえ強く、金持の人(国)であっても、非倫理的行動を採っている限りは、次第にその倫理的権威を失って行くことからも窺える。日本がそのような権威を築くには、地球閉鎖系で持続的に生存可能な行動を、できるだけ多くの日本人が採ることにかかってこよう。

 誰でも実行可能なそのような行動の一つは、『食事を残さない』ことである。これは戦中戦後の飢えを経験した人ならごく自然に実行してきたことであり、子供であっても家庭と学校で躾るならば実行可能であることは歴史的に証明されている。残飯は?もちろん各人が持って帰り、後で食べればよい。ささやかな食作法であっても、それを守ることは、エネルギーを浪費する利己主義者に対する無言の批判となり、飢えている8億人への最小限の連帯に通ずるであろう。


1999-9-20 YI

ゼロエミッション/Zero emission 

 少しでも良い環境を,と望むのは人の常である。しかし社会の物流を入力で制限せず,出口だけでゼロにすることは出来ない。人間が排泄物を出すように,社会活動も排泄物、無秩序を出さざるを得ない。そうしなければ秩序を維持できないからであある。物理学的は,自然現象ではエントロピー、無秩序が常に増加する。これには当然、人間活動も含まれる。もし系のある部分的にエントロピーが減少するところがあったとれば,全体では必ずエントロピーは増加しているのである。この時エネルギーが費やされている.そしてエネルギーは一過性、決して再利用できない.循環できるのは物質のみである.これは自然現象の最も基本的な事で、昨今のゼロエッミション論議で、エネルギーのことを忘れている場合が少なくない.

 大量物流、浪費をそのままに循環する、大量循環社会を目指してはならない.何故ならば、それは大量エネルギー社会に陥る可能性があるからである.エネルギーを考えるといわゆる”ゼロエミッション”は誤解を招きやすい標語と言わざるを得ない.むしろ”ゼロゴミ運動”の方がよいかも知れない.かっての公害時代のように,特定の大工場など、つまり点源からの汚染物質によう環境問題は先進国、特に日本では少なくなった。今は分散した汚染源、国民全てが加害者となっていることが殆どである.このためには先ず浪費をしない社会を構築すしなければならない.大量の物質を使うこと、つまり浪費は人間の幸せ、豊かさと無関係である.

 ここで誤解がなきよう念をおすが,汚染物質を出してよいと言っているのではない。合理的な環境運動をすべきと主張しているのである.ゼロエミッションの”ゼロ”が無限の負担を求めることに終わっては困るからである.論理的に、そして冷静に社会全体で[環境リスクの問題]として考えようと言っている.これは一種の[リスク/ベネフィット論]だが、”ゼロ”を主張する人には受け入れがたかろうが、その意味は最低限理解しておく必要がある。

 巨大化した物流をそのままに、人間の欲望をそのままに、ゼロエッミションはあり得ない.ゼロを無限に求めると環境負荷は却って増え、地球規模では自然破壊が一層進むかも知れない.エネルギー消費も増え、二酸化炭素の排出量も増えよう.

 究極的には自然環境の破壊の原点は人口増にある、巨大な人口の飽くなき物欲にある.このことは長い人間の歴史が明確に証明している。21世紀に向かう人類、これからは冷静な論理で未来を見つめたいものである。

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